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仁和寺の御室桜 [桜]
4月21日(土)。この日は天気が悪く、午前中は曇り、午後からは雨とあったので、最後の桜を楽しもうと朝早く家を出て、京都に向かう。
目指すは仁和寺だ。ここの御室桜は、遅咲きの桜として有名だ。

でも、少し遅かったようだ。花がかなり散って、花弁が地面を覆っていた。
目指すは仁和寺だ。ここの御室桜は、遅咲きの桜として有名だ。

でも、少し遅かったようだ。花がかなり散って、花弁が地面を覆っていた。
二条城の枝垂れ桜 [桜]
岸和田城の桜 [桜]
北陸の旅⑪ 尼御前岬 [その他観光・レジャー]
北陸自動車道に尼御前サービスエリアというのがある。
近くに尼御前岬があるから、ついた名前だ。
尼御前岬は、サービスエリアに車を置いて、歩いて行ける。

尼御前岬には、伝説が残っている。
源義経主従が奥州を目指していた。ここから奥州へ下るには安宅の関を通らねばならず、安宅の関の厳しさは義経らの耳にも入っていた。
義経主従の中に尼御前という名の尼がいた。尼御前は安宅の関の厳しさ、これから先の旅路を女であるがゆえ足手まといになると憂い、主君義経の無事を祈願しこの岬から身を投げたという。

尼御前の銅像
松林が邪魔になって、眺望はもう1つであるが、松林の向こうに日本海の青い海が見えている。

このサービスエリアには、こんな句碑もあった。

むざんやな 兜の下の きりぎりす
この句は、横溝正史の「獄門島」を思い出させるが、
芭蕉が、実盛の兜がまつられている小松市の多太神社を訪れた際よんだ句である。
句中の「きりぎりす」は、ツヅリセコオロギのことだと言われている。
斎藤別当実盛の遺品の兜、いま秋、コオロギが一匹、兜の下で鳴いている。このコオロギは実盛の霊かもしれない。いたわしいことである。そういう鎮魂の感情である。
(続く)




近くに尼御前岬があるから、ついた名前だ。
尼御前岬は、サービスエリアに車を置いて、歩いて行ける。

尼御前岬には、伝説が残っている。
源義経主従が奥州を目指していた。ここから奥州へ下るには安宅の関を通らねばならず、安宅の関の厳しさは義経らの耳にも入っていた。
義経主従の中に尼御前という名の尼がいた。尼御前は安宅の関の厳しさ、これから先の旅路を女であるがゆえ足手まといになると憂い、主君義経の無事を祈願しこの岬から身を投げたという。

尼御前の銅像
松林が邪魔になって、眺望はもう1つであるが、松林の向こうに日本海の青い海が見えている。

このサービスエリアには、こんな句碑もあった。

むざんやな 兜の下の きりぎりす
この句は、横溝正史の「獄門島」を思い出させるが、
芭蕉が、実盛の兜がまつられている小松市の多太神社を訪れた際よんだ句である。
句中の「きりぎりす」は、ツヅリセコオロギのことだと言われている。
斎藤別当実盛の遺品の兜、いま秋、コオロギが一匹、兜の下で鳴いている。このコオロギは実盛の霊かもしれない。いたわしいことである。そういう鎮魂の感情である。
(続く)

義経になった男(一)三人の義経 (ハルキ文庫 ひ 7-3 時代小説文庫)
- 作者: 平谷美樹
- 出版社/メーカー: 角川春樹事務所
- 発売日: 2011/06/06
- メディア: 文庫

義経になった男(二)壇ノ浦 (ハルキ文庫 ひ 7-4 時代小説文庫)
- 作者: 平谷美樹
- 出版社/メーカー: 角川春樹事務所
- 発売日: 2011/06/06
- メディア: 文庫

義経になった男(三)義経北行 (ハルキ文庫 ひ 7-5 時代小説文庫)
- 作者: 平谷美樹
- 出版社/メーカー: 角川春樹事務所
- 発売日: 2011/06/06
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義経になった男(四)奥州合戦 (ハルキ文庫 ひ 7-6 時代小説文庫)
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- 発売日: 2011/06/06
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北陸の旅⑩ 丸岡城 [城]
昨年9月に行った北陸旅行の記事が途中になってしまった。
前日、午前高岡、午後金沢と廻った。生憎、天気はあまりよくなかった。
この日はやっと晴れた。
家内がテニスの試合に出ている間に、福井の丸岡城まで走ることにした。
丸岡城に行くのに、レストラン兼お土産屋さんの駐車所に停める。駐車料金はただだ。公共の施設なのだろう。
歴史民俗博物館もあったのだが、まずは天守閣を見ることにする。

丸岡城は、柴田勝豊(勝家の甥)が天正四年(1576)北ノ庄城の支城として築城したお城で、別名、霞ヶ城という。屋根が珍しい石瓦でふかれたこの現存する天守は日本最古を誇っており、城郭建築史上の重要な遺構とされており、国の重要文化財である。
天正10年(1582)の本能寺の変後、勝豊が江州長浜へ移ると、城主は安井家清・青山修理亮・忠元・今村盛次と代わり、慶長18年(1613)本多成重が4万3,000石で入城した。
成重は、「鬼作左」の名で知られる三河三奉行の一人、本多作左衛門重次の嫡男である。
重次が陣中から家族にあて、『一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥せ』と書き送った手紙の話は有名だが、その文中の”おせん”は、幼名を仙千代といった成重のことである。
本多氏は、4代重能の元禄8年(1695)、お家騒動に因を発して除封となり、かわって有馬清純が5万石で入部、8代、160年間伝えて、明治維新に及んだ。
昭和9年(1934)国宝に指定されたが、昭和23年(1948)福井大震災により倒壊した。昭和25年重要文化財の指定を受け、昭和30年に修復再建された。
前日、午前高岡、午後金沢と廻った。生憎、天気はあまりよくなかった。
この日はやっと晴れた。
家内がテニスの試合に出ている間に、福井の丸岡城まで走ることにした。
丸岡城に行くのに、レストラン兼お土産屋さんの駐車所に停める。駐車料金はただだ。公共の施設なのだろう。
歴史民俗博物館もあったのだが、まずは天守閣を見ることにする。

丸岡城は、柴田勝豊(勝家の甥)が天正四年(1576)北ノ庄城の支城として築城したお城で、別名、霞ヶ城という。屋根が珍しい石瓦でふかれたこの現存する天守は日本最古を誇っており、城郭建築史上の重要な遺構とされており、国の重要文化財である。
天正10年(1582)の本能寺の変後、勝豊が江州長浜へ移ると、城主は安井家清・青山修理亮・忠元・今村盛次と代わり、慶長18年(1613)本多成重が4万3,000石で入城した。
成重は、「鬼作左」の名で知られる三河三奉行の一人、本多作左衛門重次の嫡男である。
重次が陣中から家族にあて、『一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥せ』と書き送った手紙の話は有名だが、その文中の”おせん”は、幼名を仙千代といった成重のことである。
本多氏は、4代重能の元禄8年(1695)、お家騒動に因を発して除封となり、かわって有馬清純が5万石で入部、8代、160年間伝えて、明治維新に及んだ。
昭和9年(1934)国宝に指定されたが、昭和23年(1948)福井大震災により倒壊した。昭和25年重要文化財の指定を受け、昭和30年に修復再建された。
北陸の旅⑨ 金沢21世紀美術館 [アート]
北陸の旅⑧ 兼六園 [公園]
金沢と言えば、兼六園である。金沢城の向かいにある。

兼六園は、岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで、日本三名園の一つで、国の特別名勝にも指定されている。江戸時代、加賀藩の庭園として造られたことに端を発する。延宝4年(1676年)に5代藩主前田綱紀が「蓮池亭」を造り、その庭を「蓮池庭」と呼んだのが始まりである。
13代藩主前田斉泰が現在のものにほぼ近い形にした。「兼六園」の名称は宋代の詩人・李格非が『洛陽名園記』の中で、中国洛陽の名園「湖園」を謳った「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備える名園」に倣い、文政5年に白河楽翁公(松平定信)によって命名された。
桂坂口から門を入り、しばらく行くと、大きな池があり、見たことのある石灯籠がある。

池は霞ヶ池と言う。


石灯籠は徽軫灯籠と言う。徽軫灯籠は足が二股になっていて、琴の糸を支える琴柱に似ているのでその名が付いたと言われている。この灯籠は水面を照らすための雪見灯籠が変化したものである。
近くにいた小学生くらいの女の子が、お母さんに、「この景色、NHKのニュースで最初に出てくる景色だね」と言っていた。金沢のNHKニュースでは、最初に兼六園が映し出されるらしい。

兼六園は、岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで、日本三名園の一つで、国の特別名勝にも指定されている。江戸時代、加賀藩の庭園として造られたことに端を発する。延宝4年(1676年)に5代藩主前田綱紀が「蓮池亭」を造り、その庭を「蓮池庭」と呼んだのが始まりである。
13代藩主前田斉泰が現在のものにほぼ近い形にした。「兼六園」の名称は宋代の詩人・李格非が『洛陽名園記』の中で、中国洛陽の名園「湖園」を謳った「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備える名園」に倣い、文政5年に白河楽翁公(松平定信)によって命名された。
桂坂口から門を入り、しばらく行くと、大きな池があり、見たことのある石灯籠がある。

池は霞ヶ池と言う。


石灯籠は徽軫灯籠と言う。徽軫灯籠は足が二股になっていて、琴の糸を支える琴柱に似ているのでその名が付いたと言われている。この灯籠は水面を照らすための雪見灯籠が変化したものである。
近くにいた小学生くらいの女の子が、お母さんに、「この景色、NHKのニュースで最初に出てくる景色だね」と言っていた。金沢のNHKニュースでは、最初に兼六園が映し出されるらしい。
北陸の旅⑦ 金沢城・続き [城]
二の丸広場に立つ。随分広い。


菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓と一続きになっている。
金沢城の復元整備事業の第1期工事として、平成10年3月から実に3年4ヶ月をかけて、平成13年7月に完成した。3層3階の菱櫓と橋爪門続櫓を2層2階の五十間長屋でつないでいる。これらの建物は、戦の際に二ノ丸を守るための施設で、菱櫓は大手と搦手を見張る物見櫓、橋爪門続櫓は二ノ丸大手の橋爪門枡形を見張る物見櫓、五十間長屋は武器等の倉庫だった。

内部に入ることが出来る。

櫓内から見た三の丸


菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓と一続きになっている。
金沢城の復元整備事業の第1期工事として、平成10年3月から実に3年4ヶ月をかけて、平成13年7月に完成した。3層3階の菱櫓と橋爪門続櫓を2層2階の五十間長屋でつないでいる。これらの建物は、戦の際に二ノ丸を守るための施設で、菱櫓は大手と搦手を見張る物見櫓、橋爪門続櫓は二ノ丸大手の橋爪門枡形を見張る物見櫓、五十間長屋は武器等の倉庫だった。

内部に入ることが出来る。

櫓内から見た三の丸
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